マンションに着いたのは、まだ夜の八時半過ぎ。 今日は観たいTV番組もあったけれど、それよりも「原稿を書きたい!」という気持ちの方が強くて。リビングは素通りして、まっすぐに仕事部屋の机に向かった。「――さあ、書こう!」 シャーペンを手に取るといつもの〝儀式〟を終え、書きかけの原稿用紙を広げた。 ――『あんたは一体、誰のために作品を書いてるの?』 …… お母さん、言ってたね。原口さんも私の新作を楽しみにしてるファンの一人だって。だから私は書くよ。ファンの皆様と初めて私の本を読んでくれる人達と、そして大好きな原口さんのために! 私の意識の変化は筆の進み具合にも顕れるらしく、「書かなきゃ!」と思っていた時は捗(はかど)らなかったのに、「書きたい!」と思うと面白いくらいに筆がサクサク進む。 気がつくと夜中の十一時を過ぎていて、なんと二十枚以上も書いていた。 こうなるともう〝ライターズ・ハイ〟再びなのか、翌日は朝から晩まで書き続け、この二日で書いた枚数は五十枚以上! 締め切りまであと半月以上を残し、総枚数は二百枚を突破した。 一時は「降りたい」とまで思いつめていたのがウソみたいだ。 この調子なら大丈夫。原口さんとの約束も果たせそうだ。――今、電話しても大丈夫かな? 夜の八時過ぎてるけど。『――はい、原口です。先生、もう大丈夫なんですか?』 私の復活があまりにも早かったせいか、彼は驚きと心配が半々の声をしている。「はい、おかげさまで。昨日はご心配おかけしてすみませんでした。もう大丈夫です」『それはよかった。――で、原稿の方は?』「昨日と今日で五十枚以上書けました。今の時点で二百枚超えてます。……ところで原口さん、一つ訊きたいことがあるんです」『……? 何ですか?』 私が昨日からすっと気になっていること。彼はどうして私が「降りたい」と言った時に「蒲生先生とは違う」と言い切れたのか? 自分が担当している作家がまた仕事を投げ出そうとしたのだから、怒っても不思議じゃない状況だったのに。 それをそのまま訊ねると、彼の答えはこうだった。『それは、先生がすごくつらそうな顔をなさってたからです。で、ああこれは開き直ってるわけじゃないんだな、と』「ああ……、そうだったんですね」 それで合点(がてん)がいった。思ったことがすぐ顔にでる性質に、今回ばかりは
『というか先生、いいタイミングで連絡下さいましたよ。実はたった今、〈パルフェ〉のWEB(ウェブ)サイトが完成したところで』「えっ? じゃあ今、編集部に?」『はい。僕が編集長なんで、一人残ってサイトの作成してました。――大丈夫です。残業手当ては出ますんで』 ……いや、心配はしてましたけども! ご本人が言うことじゃないでしょ、それ。『先生、そこにパソコンありますか?』「はい」 洛陽社のホームページから入れるというので、スマホをスピーカーにしてからパソコンを起動し、「洛陽社 パルフェ文庫」で検索してみたら、確かにそこには〈パルフェ〉のポップなデザインのサイトができている。「サイトに入れました。――えっ? もう私の本の情報アップしたんですか? 早すぎません?」 創刊は八月で、今はまだ六月中旬。しかも表紙どころか原稿すらまだ上がっていないのに。『まあ、これは宣伝も兼ねて。それに、これご覧になったら先生の士気(しき)も上がるんじゃないかと思って』「はい。これを見て、私も俄然(がぜん)やる気になりました」 原口さんって不器用だけど、時々こうして粋(イキ)な計らいをしてくれる。お節介だと思うこともあるけど、こういうところが憎めないのだ。『このサイト、スマホからも入れるようにしてあります。あと、SNSのアカウントも作っておいたのでフォローしておいてもらえると……』「分かりました。ありがとうございます。最後まで頑張って書きますね! じゃ、失礼します!」 電話を切ると、スマホのホーム画面にもサイトのショートカットを貼りつけた。これを見れば、もしまた挫(くじ)けそうになっても「頑張ろう!」と思える。「――さて、昨日から書きまくって疲れたし、今日はこれくらいにしとこうかな」 三日ぶりに執筆ペースが戻り、この二日間飛ばしたので疲れた。でもイヤな疲れじゃなく、なんだか心地いい疲労感だった。 そして内容としても、一番のヤマだった恋愛の章を書き終えたことで、少し肩の荷が下りた気がした。
――数日後。「おはようございます!」 何日ぶりかに〈きよづか書店〉のバイトに復活した私は、ケガも不調もウソだったみたいに元気よく出勤した。「おはよ、奈美ちゃん。今西クンから聞いたよ! こないだケガして、それでしばらく休んでたんだって? もう大丈夫なの?」 今日は一緒のシフトに入っている由佳ちゃんが、心配して私を質問攻めにした。「うん。大したケガじゃなかったし、もう何ともないよ。――あ、店長。おはようございます」「おはよう。巻田さん、調子はどうかな?」「はい、もう大丈夫です。先日はご心配とご迷惑をおかけしてすみませんでした」 店長は今西クンから、私が悩んでいたことを聞いたらしい。きっと何日も一日気を揉(も)んでくれていたであろう清塚店長に、私は心からのお詫(わ)びを伝えた。「その調子だと、もう吹っ切れたようだね。よかった」「はい! 今日からまた、心機(しんき)一転(いってん)頑張ります!」「……? 奈美ちゃん、〝吹っ切れた〟って何が? ケガ以外に何かあったの?」 あの日は休みだったから事情を知らない由佳ちゃんが、一人首を傾げる。「うん、まあ……。色々あったんだけど、詳しい話はお昼休みにね。――さ、仕事しよ」「えっ!? うん……」 私が肩をポンッと叩くと、彼女はまだ釈然(しゃくぜん)としないのか、キョトンとしていた――。 * * * *「――ええっ!? 奈美ちゃんがスランプ?」 お昼を過ぎ、客足が落ち着いてきたので、私と由佳ちゃんは一緒にお昼休憩を取らせてもらった。 自作のお弁当を食べながら、私は数日前の出来事を由佳ちゃんに話した。――三日前に琴音先生からかかってきた電話のことも。万引き事件の話の時には、「悔しい~! あたしがその場にいれば、その中坊とっ捕まえてやったのに!」と怒りをあらわにしていた。「うん。まあ、お母さんのおかげで抜け出せたんだけどね」「っていうか、あの女の人、ホントに原口さんの元カノだったんだねー。ビックリ」 由佳ちゃんがサンドイッチにかぶりつきながら、素直な感想を漏らした。「まあ、別れたのは自分の不器用さゆえだって、原口さんは言ってたけど。でも分かんないんだ。どうして彼が私を選んだのか」「やっぱ、奈美ちゃんが好きだからなんじゃないの? なんだかんだで大事にされてるみたいだし」「うん。……Sだけ
「――で? 告白の時はもうすぐなの?」 笑いがおさまったらしい由佳ちゃんが、私の顔を覗き込む。「うん」 締め切りは来月半ばだけれど、今の執筆ペースでいけばそれより早く書き上げられるはず。そしたらその日が、いよいよ告白決行のX(エックス)デーだ! 美加も由佳ちゃんも、そして琴音先生も気づいている。彼が私を好きだってことに。そして多分、私の気持ちを彼も知ってる。告白にはエネルギーが必要だけど、今回はもしかしたら〝省エネ〟で済むかもしれない。「そっか。きっとうまくいくって、あたし信じてるよ! ――さて、早く食べて仕事に戻ろ!」「うん!」 作家の仕事と同じくらい、私はこの書店での仕事も大好きだ。このお店で大好きな仲間と働けていることに感謝しながら、私はお弁当の残りをかき込んだ。 * * * * ――それから二週間ほど経った。 週四~五日は昼間はバイト、夜は原稿執筆に精を出し、休日には書けたところまでをチェックするという日々を送り、季節は梅雨からすっかり夏になっていた。今年は梅雨明けが早かったらしい(注・この作品はフィクションです)。 今日は店長のご厚意(こうい)で、有給にしてもらえた。昨日、「今の原稿、明日には書き上げられそうなんです」って私が言ったら、「じゃあ明日は有休あげるから、執筆頑張るんだよ」と言ってくれたのだ。
――そして、待つこと十数分。 ピンポーン、ピンポーン ……♪ ……来た! 私はインターフォンのモニター画面に飛びつく。「はい!」『原口です。原稿を頂きに来ました』「はっ……、ハイっ! ロック開けてあるのでどうぞっ!」 思わず語尾が上ずってしまい、インターフォン越しに彼がプッと吹き出したのが分かった。……恥ずかしい! 緊張してるのがバレバレ! もう二年以上の付き合いなのに(仕事上だけれど)、「今更?」って思われていたらどうしよう? そしてそのショックで、昨日まで練(ね)りに練った告白プランが全部飛んでしまった。「――先生、おジャマします」「はい、……どうぞ」 玄関で原口さんを出迎えた私は顔が真っ赤だったはずだけど、彼は「今日、暑いですよね」と言っただけでいつもの定位置に腰を下ろした。――彼なりに空気を読んでくれた?「あの、先生――」「あ……、原稿ですよね? ここにちゃんと用意してあります」 何か言いかける彼の機先(きせん)を制し、まずは原稿の封筒を彼に手渡す。「あ、ありがとうございます。――あの、ここで読ませて頂いてもいいですか?」「はい。じゃあ私、冷たいものでも淹れてきますね」 私はキッチンに立つと、二人分のアイスカフェオレのグラスを持ってリビングに戻った。 彼は普段と変わりなく、原稿を一枚一枚めくっている。でも今回はじっくり時間をかけて読み込んでいる気がする。「――コレ、どうぞ」 グラスを彼の前に置いても、「どうも」と会釈してくれただけで、視線はすぐ読みかけの原稿に戻された。私は何だか落ち着かず、彼の隣りでアイスカフェオレを飲みながら成り行きを見守ることに。 ――原口さんが二百八十枚全部を読み終わったのは、夕方五時半ごろだった。「どう……でした? 誤字とかのチェックはもう自分でしてあるんですけど」 私は彼に、原稿の感想を訊ねてみる。毎回この瞬間はドキドキするけれど、今回の緊張感は普段とはケタ違いだ。「……いや、これスゴいですよ。恋愛遍歴なんかもう赤裸々(せきらら)すぎちゃって、僕が読むのなんかおこがましいっていうか何ていうか」「いいんです。あなたに読んでほしかったから」 私の過去の男性遍歴は、あまり人に自慢できるようなものじゃないけれど。それでも好きな人には知っていてほしいから。
「――私ね、前にも話しましたけど、潤とのことがあってから、『もう恋愛は懲(こ)りごり』って思ってたんです。もう恋愛で傷付いたり疲れたりしたくないって。……でも私はやっぱり恋愛小説家だから、性(しょう)懲(こ)りもなくまた恋をしちゃいました」 考えていた台詞はどこかに行ってしまったけれど。私のこの想いだけ伝わればいい。「原口さん。……私、あなたが好きです。多分、二年前に担当になってくれた時からずっと」 よし、言えた! ――さて、彼の反応はどうだろうか?「…………えっ!? ぼ、僕ですか!?」 ……がくぅ。私は脱力した。これってわざとですか? ボケですか?「そうに決まってるでしょ!? 今ここに、他に誰かいますか?」「そう……ですよね。いやあ、なんか信じられなくて」 コメカミを押さえながらツッコむと、彼は夢心地のように頬をボリボリ。でも次の瞬間、彼から聞けたのは思いがけない(こともないか。実はそうだったらと私も密かに望んでいた)言葉だった。「実は僕から告白しようと思ってたので、まさか先生の方から告白されるなんて思ってなくて」「え……?」 待って待って! これって夢?「僕も、巻田先生が好きです。二年前からずっと」「……ホントに?」「はい」 こんなシチュエーション、小説にはよく書いてるけど、いざ自分の身に起こると現実味が薄い。「……あの、あなたが二年前に琴音先生より私を選んだのはどうして? 彼女の方がずっと魅力的なのに」「それは、僕が心惹かれた相手が先生だったからです。責任感が強くて一生懸命で、でも僕のボケには的確にツッコんで下さって。僕にとってはすごく可愛くて魅力的な女性です」 〝ボケ〟とか〝ツッコミ〟とか、いかにも関西人の彼らしい。――つまり、私達の相性は最強ってことかな。SとMで、当たり前のように惹かれ合っていたんだ……。「――実はね、私ちょっと前まであなたのこと苦手だったんです。あなたが酔い潰れた姿を見るまでは、あなたのこと口うるさいカタブツだと思ってたから」 あの夜、〝素〟の彼を見て分かった。彼は精一杯、バカにされないように突っ張っていただけなんだと。「じゃあ、あの夜に僕が本当は何を考えてたか分かりますか? ――もしこのリビングが明るかったとしたら」「え……」 私は瞬く。と同時に理解した。男性である彼が、「理性を保てなく
私は目を閉じた。自分の心臓の音が、映画の効果音のようにバクバク聴(き)こえてくる。彼の吐息を間近に感じたかと思うと、唇が重なった。それも一瞬じゃなく、数秒間続いた。長いけれど優しいキス。 唇が離れると、彼は私を抱き締めてこう言った。「先生、今日はここまでにします。これ以上はちょっと……歯止(はど)めが効かなくなりそうなんで」 私はそれでも構わなかったけれど、その台詞が誠実な彼らしいので素直に頷いた。「じゃ、僕はそろそろ失礼します。――あ、そうだ。一つ、先生にお願いが」「お願い? 何ですか?」 私は首を傾げる。彼の事務的(ビジネスライク)な口調からして、「やっぱりさっきの続き」とかいう空気じゃなさそう。「カバーの題字に、先生の字をそのまま使わせて頂けないかなと。……構いませんか?」「えっ? ――はい、いいですよ」 作家の手書き文字を読者に見てもらえる機会なんてあまりないし、エッセイの内容からしてもそれはすごくいいことだと思う。「本当ですか!? ありがとうございます! ――じゃ、僕はこれで。また連絡します」「はい。……原口さん、ありがとうございます。これからもよろしくお願いします」 原口さんは玄関先でもう一度私にキスをして、ペコリと頭を下げて帰っていった。 ――私はソファーに座り込むと、唇をそっと指でなぞった。そこには柔(やわ)らかな感触と、どちらのか分からないカフェオレの香りが残っている。グラスを見たら、彼の分も空になっていた。 ……私、キスだけで腰砕(こしくだ)けになってる。恋をしてこんなになったのは初めてだ。 でも、原口さんに私の想いが伝わってよかった。恋心だけじゃなく、エッセイに込めた想いも。だから、彼に私の字をそのまま題字に使いたいって言われたのはすごく嬉しかった。 『シャープペンシルより愛をこめて。』、――それがあのエッセイのタイトル。 彼に伝わったように、このエッセイを読んでくれる全ての人達にも、私の想いが伝わればいいなと思う。
原口さんと両想いになってすぐ、私は潤に電話をした。「――潤、ゴメン。やっぱりアンタとはやり直せない。あたし、原口さんと付き合うことになったから」「……そっか、分かった。好きなヤツと両想いになれてよかったな、奈美。オレ、これでお前のことスッパリ諦めて、次の恋探すよ」 私にフラれた潤(アイツ)は、声だけだけれどスッキリしたような感じがした。 ――そして、私と原口さんが結ばれてから数週間が過ぎた八月上旬。 〈パルフェ文庫〉の創刊第一号・『シャープペンシルより愛をこめて。』の発売が三日後に迫る中、私のスマホに彼からのメッセージが受信した。『編集部が完成したので見にきませんか?』 さらに、公式サイトに書影(しょえい)もアップした、とのこと。私はそれが一目で気に入った。 私の文字がそのまま使用され、あとは原稿用紙のマス目とシャーペンの写真・ペンネームがデザインされているだけでとてもシンプルだけど、それが却って斬新(ざんしん)だ。 * * * * ――その翌日、バイトの休みを利用してできたてホヤホヤの編集部を訪れた。午前から来てもよかったけど、忙しいと迷惑がかかるかな……と思い、午後にした。 洛陽社のビルにはもう何度も来ているけれど、ここが彼氏の職場となると別の意味で緊張する。彼の働いている姿が見られると思うと……。 日傘の柄(え)を手首に引っかけ、オフショルダーの服でむき出しの肩に提げたバッグを担(かつ)ぎ直し、私は八階でエレベーターを降りた。この階は文芸部門のフロアーで、いくつかのレーベルの編集セクションと小会議室が数室あり、中でも〈ガーネット〉の編集部はこのフロアーの実に三分の二を占(し)めている。「――あ、巻田先生! お待ちしてました!」 小会議室が並ぶ廊下で、彼氏(!)になったばかりの原口さんが待っていてくれた。「原口さん! お疲れさまです。ご厚意に甘えて来ちゃいました」「〈パルフェ〉の編集部は一番奥です。案内しますね」 彼に先導(せんどう)され、私は〈ガーネット〉を含む他のレーベルの編集部をぐんぐん横切っていく。「――ところで、私達付き合い始めてもうじき一ヶ月になるんですけど。お互いの呼び方何とかしませんか?」 私はこの場の空気を読んで、小声で彼に提案した。この一ヶ月ほどで、私達の関係に何か変化があったのかといえば特にそん
「バレました? 実はそうなんです。僕ももっと早く先生にお話しするつもりだったんですけど、先生が喜ばれるかどうか心配で。僕よりも映画のプロの口から伝えていただいた方が説得力があるかな……と」「はあ、なるほど」 私も自分が書いた作品の出来(でき)には自信があるけれど、「映画化するに値(あたい)するかどうか」の判断は難しい。そこはやっぱり、プロが判断して然(しか)るべきだと思うのだ。「僕は先生がお書きになった原作の小説を読んで、『この作品をぜひ映像化したい!』と強く思いました。それも、アニメーションではなく、生身(なまみ)の俳優が動く実写の映画にしたい、と。それくらいに素晴らしい小説です」「いえいえ、そんな……。ありがとうございます」 私は照れてしまって、それだけしか言えなかった。自分の書いた小説をここまで熱を込めて褒めてもらえるなんて、なんだかちょっとくすぐったい気持ちになる。それも、初対面の男性からなんて……。「――あの、近石さん。メガホンは誰がとられるんですか?」 どうせ撮ってもらうなら、この作品によりよい解釈をしてくれる監督さんにお願いしたい。「監督は、柴崎(しばさき)新太(あらた)監督にお願いしました。えー……、スタッフリストは……あった! こちらです」 近石さんが企画書をめくり、スタッフリストのページを開いて見せて下さった。「柴崎監督って、〝恋愛映画のカリスマ〟って呼ばれてる、あの柴崎監督ですか!?」 私が驚くのもムリはない。私と原口さんは数日前に、私の部屋で彼がメガホンをとった映画のDVDを観たばかりだったのだから。「わ……、ホントだ。すごく嬉しいです! こんなスゴい監督さんに撮って頂けるなんて!」「実は、主役の男女の配役ももう決まってまして。あの二人を演じてもらうなら、彼らしかいないと僕が思う演者(えんじゃ)さんをキャスティングさせて頂きました」 近石プロデューサーはそう言って、今度は出演者のリストのページを開いた。「えっ? ウソ……」 そこに載っているキャストの名前を見て、私は思わず声に出して呟いていた。「……あれ? 先生、お気に召しませんか?」「いえ、その逆です。『演じてもらうなら、この人たちがいいな』って私が想像してた通りの人達だったんで、ビックリしちゃって。まさにイメージにピッタリのキャスティングです」 こん
「いえ、僕もつい今しがた来たところですから」「あ……、そうでしたか」 TVでもよく見かけるイケメンさんに爽やかにそう返され、私はすっかり拍子抜け。――彼が敏腕(びんわん)映画プロデューサー・近石祐司さんだ。「先生、とりあえず冷たいお茶でも飲んで、落ち着いて下さい」「……ありがとうございます」 原口さんが気を利かせて、まだ口をつけていなかったらしい彼自身のグラスを私に差し出す。……私は別に、彼が口をつけていても問題なかったのだけれど。 ……それはさておき。私がソファーに腰を下ろし、お茶を飲んだところで、原口さんがお客様に私のことを紹介してくれた。「――近石さん。紹介が遅れました。こちらの女性が『君に降る雪』の原作者の、巻田ナミ先生です。――巻田先生、こちらはお電話でもお話しした、映画プロデューサーの近石祐司さんです」「巻田先生、初めまして。近石です」「初めまして。巻田ナミです。近石さんのお姿は、TVや雑誌でよく拝見してます。お会いできて光栄です」 私は近石さんから名刺を頂いた。私の名刺はない。原口さんはもう既に、彼と名刺交換を済ませているようだった。「――ところで原口さん、さっき『君に降る雪』って言ってましたよね? あの小説を映画化してもらえるってことですか?」 その問いに答えたのは、原口さんではなく近石さんの方だった。「はい、その通りです。
「――どうでもいいけどさ、奈美ちゃん。早くお弁当(それ)食べちゃわないと、お昼休憩終わっちゃうよ?」「えっ? ……ああっ!?」 壁の時計を見たら、十二時五十分になっている。ここの従業員のお昼休憩は三十分と決まっているので、残りの休憩時間はあと十分くらいしかない! 慌ててお弁当をかっこみ始めた私に、由佳ちゃんがおっとりと言った。「奈美ちゃん、……喉つまらせないようにね」 * * * * ――その日の終業後。「店長、お疲れさまでした! 由佳ちゃん、私急ぐから! お先にっ!」 清塚店長と由佳ちゃんに退勤の挨拶をした私は、ダッシュで最寄りの代々木駅に向かった。 原口さんは、近石プロデューサーが何時ごろにパルフェ文庫の編集部に来られるのか言ってくれなかった。電車に飛び乗ると、こっそりスマホで時刻を確かめる。――午後四時半。近石さんはもう編集部に来られて、原口さんと一緒に私を待ってくれているんだろうか? 私は彼に、LINEでメッセージを送信した。『原口さん、お疲れさまです。今電車の中です。近石さんはもういらっしゃってますか?』『いえ、まだです。でも、もうじきお見えになる頃だと思います』 ……もうじき、か。神保町まではまだ十分ほどかかる。先方さんには少し待って頂くことになりそうだ。私が編集部に着くまでの間、原口さんに応対をお願いしようと思っていると。 ……ピロリロリン ♪『ナミ先生がこちらに着くまで、僕が近石さんの応対をします。だから安心して、気をつけて来て下さい』 彼の方から、応対を申し出てくれた。『ありがとう。実は私からお願いするつもりでした(笑)』 以心(いしん)伝心(でんしん)というか何というか。こういう時に気持ちが通じ合うって、なんかいいな。カップルっぽい。……って、カップルか。 ――JR山手線(やまのてせん)の黄緑色の電車はニヤニヤする私を乗せて、神保町に向かってガタンゴトンと走っていた。 * * * * ――それから約十五分後。 ……ピンポン ♪ 私は洛陽社ビルのエレベーターを八階で降り、猛ダッシュでガーネット文庫の編集部を突っ切っていった。「おっ……、遅くなっちゃってすみません!」 奥の応接スペースにはすでに原口さんと、三十代半ばくらいの短い茶髪の爽やかな男性が座っている。私は息を切らしながら、まずはお待た
「どしたの? 奈美ちゃん」「うん……。彼からメッセージが来てるの。えーっとねえ……、『お疲れさまです。このメッセージを見たら、折り返し連絡下さい』だって」 LINEアプリのトーク画面に表示されている文面はこれだけで、肝心(かんじん)の用件は何も書かれていない。「何かあったのかなあ? 返信してみたら? 『どんな用件ですか?』って」「返信より、電話してみるよ。その方が早いし」 私は履歴から彼のスマホの番号をタップし、スマホを耳に当てた。『――はい、原口です』「巻田です。なんかさっき、メッセージもらったみたいなんで折り返し電話したんですけど。たった今気がついて」『ああ、そうなんですか。――今日はお仕事ですか?』「はい。今はお昼休憩中なんですけど。――何かあったんですか?」『はい。えーっと、映画プロデューサーの近石(ちかいし)さんという方から、「巻田先生にお会いしたい」ってお電話を頂いて。今日の夕方に編集部でお会いすることになったんで、連絡したんです』「映画プロデューサーの近石さん……、あっ! もしかして、近石祐司(
――数日後。今日のバイトは久々に由佳ちゃんと一緒のシフトになった。 新作の原稿も順調に進んでいるし、原口さんとの関係も良好。ここ最近の私は公私(こうし)共(とも)に充実している感じだ。「――客足も落ち着いてきたね。二人とも、お昼休憩に行っておいで」 正午を三十分ほど過ぎた頃、清塚店長が私達アルバイト組に休憩をとるように言ってくれた。「「はい。行ってきます」」 休憩室の机の上にお弁当を広げ、由佳ちゃんとガールズトークをしながらのランチ。この日も当然、そうなるはずだった。……途中までは。「――そういえば、最近どうなの? 五つ上の編集者さんの彼氏とは」 由佳ちゃんは最近、私の恋愛バナシにご執心(しゅうしん)みたいだ。「うん、順調だよ。――由佳ちゃんの方は?」 私はお弁当箱の中の玉子焼きをお箸でつまみながら答え、今度は私から由佳ちゃんに水を向けた。「うん……。彼とはねえ、最近連絡取ってないの」「えっ? ケンカでもしたの?」 少し前まで幸せそうだったのに。予想外の答えに私は目を丸くした。「ううん、そうじゃないんだけどね。彼、最近忙しいみたいで……」 由佳ちゃんの彼氏は中学校の教師で、私の予想では多分三年生を受け持っている。「そっか……。でも、中学校の先生だったら今ごろはきっと、ホントに忙しいんだろうね。文化祭の準備とかテストとかで」 私はさり気なくフォローを入れる。それに、三年生の担任だったりしたらきっと、生徒の進路の相談に乗ったりもしているんだろうから、さらに忙しいだろうし。「少し時間が空いたら、彼からまた連絡くれると思うよ。だから、彼のこと信じて待つしかないんじゃない?」「……そうだね。あたし、彼のこと信じる」 さっきまでちょっと元気のなかった由佳ちゃんは、食べかけでやめていたコンビニのエビマヨのおにぎりをまたモグモグし始めた。「――にしても、奈美ちゃんはいいなあ。仕事でも私生活(プライベート)でも、大好きな人と一緒なんでしょ? 『離れたらどうしよう?』なんて心配はなさそうだし」 冷たい緑茶でおにぎりを飲み下した由佳ちゃんが、羨ましそうに私に言った。「うん……、まあね。逆に言えば、プライバシーもへったくれもないってことになるんだけど。別に私は困んないし」 むしろ四六時中(しろくじちゅう)彼と一緒にいられて幸せだから、私はそ
* * * * ――翌朝、原口さんはバイトに出勤する私に合わせてわざわざ早く起きてくれたので、一緒に朝ゴハンを食べた。今日のメニューは白いゴハンに焼き鮭(ざけ)、キュウリとナスの浅漬け、そしてきのことカボチャのお味噌汁。秋が旬の食材をふんだんに使ったメニューだ。 たまには洋食の朝ゴハンにしようかとも思うのだけれど、原口さんは和の朝食がお好みらしい。「――そういえば、ナミ先生って和食以外もよく作るんですか?」 ゴハンをお代わりしながら、彼が訊いた。……あ。そういえば彼がウチで食べる料理ってほとんど和食だ。洋食系のメニューって食べてもらったことあったっけ?「うん、作りますよ。中華とかカレーとかも。でも、さすがにハヤシライスは作ったことないなあ」 昨日のデートで、彼と一緒にカフェで食べたハヤシライスはおいしかった。……でも、自分で「作ってみたい」とまでは思わない。私は創作の面では結構攻めるタイプだと思うけれど、どうも他の面では守りに徹(てっ)するタイプみたいだ。 そういえば恋愛でもそうだった。原口さんのことが好きだと気づいた時だって、自分からはグイグイ行かなかった……と思うし。「――僕、ナミ先生が作ってくれる和食大好きなんですけど。たまには洋食系のメニューも食べてみたいなあ……なんて。……すみませ
* * * * ――結局、彼はやっぱり泊っていくことになった。 洗い物を済ませてから二人で交代に入浴し、寝室で甘~~い時間を過ごしたら、私は無性に書きたい衝動(しょうどう)にかきたてられた。「――ゴメンなさい、原口さん。私、これからちょっと仕事したいんですけど。机の灯りつけてても寝られますか?」 私が起き上がると、彼は「仕事って、執筆ですか?」と訊き返してくる。「そうです。眩しいようだったら、ダイニングで書きますけど」「いえ、僕のことはお気になさらず。……ただ、明日出勤でしょ? あんまり遅くまでやらないようにして下さいね」「うん、ありがとうございます。キリのいいところまでやったら、適当に寝ます。だから気にせず、先に寝てて下さい」 私はベッドから抜け出して、部屋着の長袖Tシャツの上からパーカーを羽織り、机に向かった。書きかけの原稿用紙を机の上に広げ、シャープペンシルを握る。 ノートパソコンは、相変わらずネットでしか稼働(かどう)していない。タイピングの練習は、時間が空いた時だけやっている。でも、パソコンで執筆する気にはやっぱりなれない。 原稿を書きながら、数時間前に観た映画のラブシーンとついさっきまでの彼との濃密(のうみつ)な時間を思い出しては、一人で赤面していた。私が書いている恋愛小説は濃厚(のうこう)なラブシーンが登場するようなものじゃなく、主にピュアな恋愛を描いているものがほとんどなのだけれど。 私の恋は、小説やTVドラマや歌の世界を地(じ)でいっている気がする。 潤のことも、もちろん本気で好きだった。だから、「小説家なんかやめろ」って言われてすごく傷付いたんだと思う。「どうして好きな人に応援してもらえないの?」って。 でも、原口さん相手ほどは燃えなかったなあ。こんなにどっぷり好きになった相手は、多分彼が初めてだ。そして、ここまで愛されているのも。 だって彼は、私のことを丸ごと愛してくれているから。私のダメなところも全部認めてくれて、決して貶さないし。……こんなに出来た彼氏は他にいないと思う。 ――集中してシャーペンを走らせ、原稿用紙十五枚を一気に書き上げると、時刻は夜中の十二時過ぎ。いつの間にか日付が変わっていた。「ん~~っ、疲れたあ! そろそろ寝よ……」 私はシャーペンを置き、思いっきり伸びをした。ふと、後ろのベッド
「――さて、と。まだ時間も早いですけど、DVDでも観ます?」 私はソファーから立ち上がると、ミモレ丈(たけ)のデニムスカートの裾を揺らしてTVラックの所まで行き、彼に訊ねる。 今日は映画を観てきたけれど、この部屋の中での時間の潰し方は限られる。TVを観るか、DVDを観るか、仕事するか。それとも…………。「いいですけど。ちなみに、どんなジャンルですか?」「ワンパターンで申し訳ないんですけど、恋愛映画……。洋画と邦画、どっちもありますけど」 これでも恋愛小説家である。他の作家さんの恋愛小説だけでなく、時にはコミックやTVドラマ・映画などを作品の参考にすることもあるのだ。そういう意味で、恋愛映画のDVDは資料としてこの部屋には豊富に揃(そろ)っている。「じゃあ……、邦画の方で」「了解(ラジャー)☆」 私が選んだのは、〝恋愛映画のカリスマ〟と名高い若手映画監督がメガホンをとった映画。今日観て来た映画とは違う、ドラマチックな演出をすることで有名な人の作品だ。 ――でも見始めてから、この作品を選んだことを後悔した。「「わ…………」」 途中で際(きわ)どいラブシーンが流れて、何となく気まずい空気になったのは言うまでもない。 あまりにも生々しすぎるラブシーンを直視できず、TV画面から視線を逸らしてチラッと隣りを見遣れば、原口さんは瞬(まばた)きひとつせずに画面に釘付けになっていた。 ……目、大丈夫かな? ドライアイにならない? 私は彼の顔の前に手をかざして上下に動かしてみる。「お~い、起きてますかぁ?」「…………ぅわっ!? ビックリした!」 ハッと我に返った彼のガチのビックリ顔がおかしくて、私は思わず吹き出した。「ハハハ……っ! めっちゃ見入ってましたねー」「スミマセン」 お家デート中に彼女の存在そっちのけで映画に見入っちゃうなんて、なんて彼氏だ。……まあでも、面白いものが見られたからよしとしよう。「――あ、終わった。ちょっと刺激強すぎたかな……」 映画は二時間足らずで終わった。プレイヤーから出したディスクをケースに戻し、次に観る時はもう少し刺激の少ない映画にしようと思った。「お風呂のお湯、入れてこようっと。――先に入りますか?」 この調子だと、今日も彼はこの部屋に泊まっていくことになりそうなので、私はバスルームに向かいがてら彼に訊ね
「原口さんだって、もうちょっと広い部屋の方が落ち着けるでしょ? ベッドだって狭いし」「だったら、ベッドだけシングルからセミダブルに変えたらいいんじゃないですか?」 彼の提案は身もフタもない。せっかく「あなたの部屋の近くに引っ越したい」って言うつもりだったのに。「ここの寝室は狭いから、セミは置けないんです。だからどっちみち引っ越すことになるの。……まあ、狭いベッドの方が、ベッタリくっついていられるから私もいいんですけど」「そっ……、そういう意味で言ったんじゃ………」 ちょっと意味深な視線を送ると、彼は真っ赤になって慌てた。私より恋愛慣れしているわりには、結構ピュアだったりするのだ。「冗談ですって。でも、引っ越すなら赤坂の方の物件がいいな。原口さんのお部屋の近く」「え……」「その時は、お手伝いよろしく☆」「…………はい」 私の方が年下なのに、彼は腰が低いというか、立場が弱いというか……。私に何か頼まれると、「イヤです」とは言いにくいらしい。話し方だって、未だに敬語が抜けないし。 しばらく話し込んでいたら、マグカップに入っていたミルクティーはもうほとんど飲み終えつつあった。私は彼の肩にそっと頭をもたげる。「――あ、そういえば美加が、『いつ結婚式の予約入れてくれるの?』って言ってたんですけど」「美加さんって……、こないだ取材させて頂いたウェディングプランナーのお友達ですか?」